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街写真のあり方

昨日、なぎら健壱の『町の後ろ姿 都電沿線2006年夏』、
今日はイジスの『少年の日々』がそれぞれアマゾンから届いた。

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なぎら健壱町の後ろ姿 都電沿線2006年夏』(表紙)


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IZIS少年の日々』より


なぎら健壱のは第二写真集でその前の『東京のこっちがわ』は既に手にしていた。
イジスは写真集自体少ないが、数少ない中でもこれはアンソロジーなのであまり気にしていなかったのだけれど、イジスは好きなのでまあ買った。

どちらも街写真と言えば街写真である。お散歩写真、あるいは街角スナップである。

で、あらためて街角スナップについて考えた。

僕も写真に興味を持ちはじめた頃、撮ったのは街角スナップだった。ずっと街角を撮り続けていた。それでそのうちなんだかむなしくなった(笑)。

写真を撮る人はだれでもどこかで一度むなしくなったり、もうやめようかなと思ったりすると思うんだけれど(長く続けているとね)、で、そのときにいろいろ考えたことがこの二冊をみて、昨日今日と頭を駆け巡っている。木村伊兵衛とか桑原甲子雄とかもろもろ浮かんでくる。

え〜っと、まとまらないのでまた後日にします。
とにかくなぎらはどうなんだろうと思っており、イジスはいいなあと思っています(笑)。その違いは何なのか。え〜っと・・・ということで。

とにかく写真にとって、「街角スナップ」っていうのは重要な問題ですよね。


ではまた明日。




20:19 | 写真論 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

写真はみる人のもの、あるいはキャプション派か。

写真の語り部たち』(澤本徳美ぺりかん社)を読了。
近現代の写真史に名を残しているカメラマンたちについての評論。
澤本徳美という人をこの本でしか知らなかったが、『コマーシャル・フォト』や『フォトテクニック』での連載が収録されているという。

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EOS 5D : EF50mm F1.8 : f/1.8


難しい表現に逃げず、率直に、暖かく、そして平凡に、世界の写真家を寸評している。その平凡さは人のよさに由来しているようだが、退屈で、あらたに眼を開かせてくれるというところが残念ながらなかった。

おもしろかったのは、アンドレケルテスのところで、「憂鬱そうなチューリップ」と題された写真についてのエピソード。
この写真の鑑賞を新聞に書いた澤本が、後に自分の鑑賞とは全然違った(ある意味正反対の)心情で実は撮られていたということを、他の人の指摘と、そして撮影者であるケルテス自身の口から知ったということを率直に記している。

写真に込められた真意を理解できなかったと、自分の不勉強を恥じるといった主旨のことを澤本は続けて書いているが、そんなに恐縮することもないと思う。

写真が撮影者によってどんな気持ちで撮られたかなど、第三者にはわかりようもない。もちろん報道写真やなんかのことではない。

やはり写真も、撮った人とそれをみる人との違いは、どちらも尊重される。あらゆる芸術がそうであるように、放たれた後は、享受者のものだ。
そして享受者の楽しみは、どのように享受したかのお互いの交流だ。その時、撮影者の真意もまた、一つの享受としてレファランスしたくなるというものだろう。そしてそれは模範解答ではない。

澤本は自分が感じたことをそのまま撤回することなく自分はそう感じたのだと公言すればいいのにと思う。そういうところが人がよい・・・と思った。

撮影者は、誤解されたくないのだったら、キャプションを。

この態度の違いが、写真のあり方をまずは二分する潮流となっているか。これを自覚していないと、撮っている写真がなんだか自分の中で混乱してくる。今の自分がそうで、『写真の語り部たち』は、だからこのエピソードが印象に残った。




07:06 | 写真論 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

生活していくということは

昨年入園した娘も満一年がすぎようとしており、担任の先生へお別れのプレゼントをあげようと、午後から買い物に出掛けた。

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EOS 5D : EF50mm f 1.8


生活することに、映画の一コマのような完璧な画面構成など求めてはあぶない。まるでこの写真のように、どこかが整わないものなのだ。そういうふうに自分を励ましたい。整わない写真に自戒とエールを込めて。
23:02 | 写真論 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

『木村伊兵衛の眼』を読んで

先月出版された『木村伊兵衛の眼』(平凡社 コロナブックス)を読んだ。木村伊兵衛について書くのはたいへんなので、とりあえず一つだけ。


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EOS IXE [ APS 16:9 ] / SIGMA24-60


自分の撮るものは棚にあげるが、やっぱり僕は写真になんらかの意味を求めてしまう傾きがある。
ところが、十年くらい前だったか、木村伊兵衛が(たぶんライカフレックスSLで撮ったと思われる)、晩年の病床で部屋の時計を撮ったという写真を見たとき、壁にかかったただの時計のその写真が、とにかくとても気に入って、印象に強く残ったということがあった。

この体験は、僕の写真観に大きな影響を与えている。
少なくとも、その写真は僕にとっては「意味を持たない写真」の範疇に属する。にもかかわらず、どうしてこうも自分の心をとらえるのか。フォトジェニックというのはこういうことなのか。

おおざっぱに言えば、「木村伊兵衛より土門拳」というところが僕の好みなのだが、その時計の写真は、僕の写真論をそれでいいのかと時々、繰り返し、問い返してゆさぶる。


木村伊兵衛の眼』は、よい本でした。木村が使用していたライカやレンズが載っており、いいあんばいの機体になっていて、ふたたびライカが欲しくなったりして困った。




23:26 | 写真論 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」に寄せて

サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」。
詞の世界が、ソングライティングとプレイにきちんとマッチしているのに感心した。
「愛」についての定義が大きな世界観で歌われている。そのようなロックは日本では少ない。

世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」。うん、「それ」に見合う写真を、この唄に負けない「それ」を撮れないものか。

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EOS 5D : EF24-85 : 85mm f 4.5






12:24 | 写真論 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑