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シリーズ『額裝礼讃』(その3)

写真立てについて綴るシリーズの三回目。

百円ショップに行くと、実にたくさんの写真立てがある。
その品揃えだけでなら、文具店や画材店、カメラ屋などにも勝るのではないか。

その百円ショップで買ったのがこの写真立て。

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EOS 5D : EF50mm F1.8 : f/1.8

銀色なのだが、金属なんかではなく、木製に安っぽい銀の塗装である。
その安っぽくすすけた感じがなんとなくよくて買った。

正方形のフォーマットの写真立てである。
正方形はたしかこれ以外にもう一つしかなく、やはり正方形は買うのに躊躇する。写真を正方形にカットするのもつらい。スクエアフォーマットの写真をそもそも撮っているというんだったら楽しいんだろうけれど。

百円ショップの写真立てにはアタリハズレがあり、ガラス部分もプラスチックやアクリルだったりして、写真を入れた時の見え方がガラスとくらべるとわるかったりする。おまけにやっぱり壊れやすい。

よほど吟味した上で買うべし。

この写真立てはよかった。いいでしょ。100円です。100円。

(って、どうしてこんなに安いのかを考えると萎えるけれど)。


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シリーズ『額裝礼讃』(その2)

写真立てについて綴るシリーズの二回目。

この写真立てはH(ハイビジョン)サイズ用の額である。

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CONTAX Aria : Carl Zeiss Planar T* 50mm F1.4 MMJ : f/2.0


ハクバから出ていて、フチは金属で重みがあり、立体のマットになっていて立派である。値段もそこそこしていたと思う。

とにかくHサイズの額は、APSカメラ全盛の時代はともかく、その後は急速にお店の棚から消えていった。そのさなかに僕はCanon EOS IXEを気に入って使っていたわけだから(前出:2月27日付など)、当時も不安でこの写真立てなんか三つほど買い込んだりしていた。

今もあるのかもしれないが、ハクバのHPカタログにはないようだ。APSは今となっては超少数派だとしても、Hサイズの写真立てがないというのは困りものだし、さらにはPanasonic LX2のユーザーである僕らは現役なわけだから困る。メーカーは少々無責任ではないか。

そういえばHサイズ用のアルバムというのも消えていったよな。




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シリーズ『額裝礼讃』(その1)

『銘機礼讃』と題してカメラについて書いているシリーズと、「カメラバッグ」について書いているシリーズ物の第三弾として、「写真立て」について、これから数日書いていこうと思う。

カメラや写真のブログでも、「写真立て」については案外語られていないのではないか。
でも「写真立て」というものも、なかなか魅力的なカメラにまつわる道具類と思われる。

写真立て・額(額縁)・フォトフレーム・・・・・案外に類語が少ないなあ。その行為を「額裝」とまあ呼ぶとして、額装することは楽しいし、そのための額縁や写真立てを選ぶのも楽しい。


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CONTAX Aria : Carl Zeiss Planar T* 50mm F1.4 MMJ : f/2.0


「写真立て」のことを書こうとして、まずは写真立ての写っている写真はないかと探してみた。あらためて写真立てを撮ったりするのは面倒だから、たまたま撮っていたというものをアップしていきたいと思う。上の写真はコンタックスの一眼レフ、アリアのために試写した一枚から。


よく見かけるし、だから珍しくもないが、これはお気に入りの写真立ての一つである。

写真立てもいろいろあるが、「組写真」で飾れるなあと思って、何を入れるかはともかく買った。

けっきょく、娘の育ちを誕生の最初の一枚から組んで、飾っている。

左右の開き方でこの写真立てはデザインが変わる。観音開きにしているが、左右を前後に互い違いに開くと、またずいぶん違った印象になったりする。開き方で安定感も変わる。

枠組みも丈夫な材でできており、重さもあり、しっかりしたつくりである。

中身の写真をどんどん変えていく写真立てというのもあるが、この写真立ては、これはもうこのまま何十年とほうっておこうとおもっている。時とともに、娘が大きくなって、この写真の像が遠い姿になったとき、味が出ることだろうと思う。

この五枚の写真で一つの組写真としてそのように完結させたい。



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写真はみる人のもの、あるいはキャプション派か。

写真の語り部たち』(澤本徳美ぺりかん社)を読了。
近現代の写真史に名を残しているカメラマンたちについての評論。
澤本徳美という人をこの本でしか知らなかったが、『コマーシャル・フォト』や『フォトテクニック』での連載が収録されているという。

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EOS 5D : EF50mm F1.8 : f/1.8


難しい表現に逃げず、率直に、暖かく、そして平凡に、世界の写真家を寸評している。その平凡さは人のよさに由来しているようだが、退屈で、あらたに眼を開かせてくれるというところが残念ながらなかった。

おもしろかったのは、アンドレケルテスのところで、「憂鬱そうなチューリップ」と題された写真についてのエピソード。
この写真の鑑賞を新聞に書いた澤本が、後に自分の鑑賞とは全然違った(ある意味正反対の)心情で実は撮られていたということを、他の人の指摘と、そして撮影者であるケルテス自身の口から知ったということを率直に記している。

写真に込められた真意を理解できなかったと、自分の不勉強を恥じるといった主旨のことを澤本は続けて書いているが、そんなに恐縮することもないと思う。

写真が撮影者によってどんな気持ちで撮られたかなど、第三者にはわかりようもない。もちろん報道写真やなんかのことではない。

やはり写真も、撮った人とそれをみる人との違いは、どちらも尊重される。あらゆる芸術がそうであるように、放たれた後は、享受者のものだ。
そして享受者の楽しみは、どのように享受したかのお互いの交流だ。その時、撮影者の真意もまた、一つの享受としてレファランスしたくなるというものだろう。そしてそれは模範解答ではない。

澤本は自分が感じたことをそのまま撤回することなく自分はそう感じたのだと公言すればいいのにと思う。そういうところが人がよい・・・と思った。

撮影者は、誤解されたくないのだったら、キャプションを。

この態度の違いが、写真のあり方をまずは二分する潮流となっているか。これを自覚していないと、撮っている写真がなんだか自分の中で混乱してくる。今の自分がそうで、『写真の語り部たち』は、だからこのエピソードが印象に残った。




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一本どっこ

前述してきたように、妻と子どもたちが今日帰省していった。
これから二週間、一人でのんびりできる。
とりあえず、妻の趣味ではないが僕は見たかったという映画をどっさりかりてきた。

週末にかけて、ゆっくりこれからの過ごし方を考えようと思う。
無沙汰をしてしまっている友達と深夜まで話し込んだり、旅ももちろん、仕事にもじっくり取り組める。

子どもや妻を言い訳にして、時に自分自身に向き合わないでいた自分と対座する、一本どっこの毎日がはじまった。

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EOS 5D : SIGMA24-60 : 60mm f/2.8
01:33 | 家族 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑